「あきらめる」という言葉は、あまり良い言葉ではないように感じますが、本当の意味は少し違います
少し仏教の考えも入れながら考え方を柔らかくできればと思います
ある患者さんとの別れ
私は緩和ケアやリンパ浮腫患者さんの対応もしますが、人工呼吸器を装着しているような重症な患者さんにも介入しています
ある患者さんが重度の肺炎にかかり、人工呼吸器を装着していました
痰がかなり多く、何とかして痰を出す方法を考えました
理学療法には、痰を出す方法がいくつもあり、それらを組み合わせて息がしやすくなるようにサポートします
何日も頑張ったのですが、なかなかよくなりません
折れそうな心を何とかして保ちながら必死に介入していましたが、その姿は患者さんの家族にとっては辛いものとなっていました
ある時、「自分がやっていることは正しいのか?」と疑問に思ってしまいました
しかし、他のスタッフからは「あきらめたらあかん」とも言われました
そうしている間に、その方は旅立ってしまいました
もちろん私は燃え尽きてしまいました
そこで思ったのが、「あきらめる」って何?ということでした
「あきらめる」とは?
あきらめる、つまり「諦める」とは
もう希望や見込みがないと思ってやめる。断念する
goo辞書から引用
という意味です
やはりマイナスなイメージですね
しかし、そのころ私は仏教に興味があったので、ちょうど般若心経の意味を調べていた時に「あきらめる」の意味を知りました
般若心経から考える
般若心経の中に「無苦集滅道」という言葉がでてきます
この「苦集滅道」を合わせて「四諦(したい)」と言います
この「諦」という字が「あきらめる」を表しているのですが、本当は「明らめる」ということなのです
すなわち
- 明らかにする
- 物事の本質を明らかにつかむ
- はっきりさせる
という意味なのです
そう考えると「諦」という言葉は、「物事の本質」や「真理」という言葉と近い意味を持っています
これを知った時、すごく腑に落ちて燃え尽きは解消しました
「明らめる」のは大事なこと
それからは「明らめる」ことを大事にして、物事を考えるようになりました
もちろん患者さんが最優先にはなるんですが、自身のエゴにならないように様々な見解を取り入れながら「本質を明らかにする」ことを意識しています
「あきらめる」のはそう悪いことではないみたいですね
コメント
私の父の最期は人工呼吸器ではありませんでしたが肺炎となり酸素呼吸器でしょうか?をされて
出来る限り痛みを取り除いてお願いしますと頼みました。
折れそうな心を何とかして保ちながら必死に介入していましたが、その姿は患者さんの家族にとっては辛いものとなっていましたと書かれておられますが癌患者の家族はキチンとスタッフの姿も見ていますよ。
私の父の担当して下さったドクターは2人おられ最初の消化器内科のドクター。
肺に転移にしてからは呼吸器に移動となりました。
消化器内科のドクターは毎日、声掛けにだけ病室を訪れて下さいました。
反対に呼吸器内科のドクターは家族から見ても冷たいドクターでした。
最期は殆ど意識がないのにも関わらず消化器内科のドクターが来られて父に声をかけて頂くと不思議と反応していました。
嬉しかったんだと思います。
この2人の姿を読まれてどう感じられましたか?
そして父が逝った後はじめて呼吸器内科のドクターが私に対して申し訳ありませんでしたと仰ったので、これからが本当の勉強ですねと申し上げて病院を後にしました。
コメントありがとうございます。患者さんのためを思ってやっていることなんですが、実は自分のエゴだったりもするときもあります。
悩みながら介入していることの方が多いのですが、それが医療者の宿命なんやろなと感じています。
「声掛けだけでもいいんや」と思えるようになるまで、実はすごく大きな壁があるように思います。
「何か役に立ちたい」「治してあげたい」と強く思うほど、何もできなくなった時に部屋に行きにくくなることもあります。
私にはどちらのドクターにもそれぞれの想いがあったように思うので、なかなか優劣はつけ難いですね。
私自身は身体に触れる仕事なので、声をかけたり服のシワを伸ばしたり、布団をきれいにかけることも
役割だと思っています。
それはおそらく医療者⇔患者さんではなく、人⇔人なんやろなぁと思います。